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篠原総理の発案だった



改憲派の「日本国憲法は米国から押し付けられた」はデマだった! 9条が幣原総理の発案だったとの証拠が明らかに|LITERA/リテラ(SP) 本と雑誌の知を再発見 lite-ra.com 左『マッカーサー大戦回顧録』(中公文庫)ダグラス・マッカーサー・著 津島一夫・訳/右『外交五十年』(中公文庫プレミアム)幣原喜重郎


幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日) - 1951年(昭和26年)3月10日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は男爵。 外務大臣(第40・41・43・44代)、貴族院議員、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第44代)、第一復員大臣(初代)、第二復員大臣(初代)、復員庁総裁(初代)、副総理、衆議院議員、衆議院議長(第40代)などを歴任。



 先日の国会でも「戦力の不保持」を明記した9条2項を含む改憲を示唆した安倍首相だが、彼を筆頭とする改憲タカ派や保守論壇がしきりに喧伝しているのが、“日本国憲法はアメリカから強要された”という、いわゆる「押し付け憲法論」だ。  安倍首相自身、2012年末にネット番組で「みっともない憲法ですよ、はっきり言って。それは、日本人がつくったんじゃないですからね」と、現行憲法への敵意を剥き出しにしている。  また、昨日の『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)でも、安保法制は違憲ではないと主張していた日本会議常任理事の憲法学者・百地章氏が「日本が二度と連合国やアメリカの脅威とならざる、というのがアメリカの占領目的でした。その一環としてまさにこの日本の憲法はつくられた」と主張していた。  しかし、彼らが言う「日本人がつくった憲法じゃない」というのは、実のところ、まったくのデマゴギーなのである。  2月25日放送の『報道ステーション』(テレビ朝日)が、日本国憲法の成立過程についての特集を組み、この「押し付け憲法論」を反証する新証拠をテレビで初公開した。それは、今から約60年前、「自主憲法制定」を掲げた岸信介内閣で設置された憲法調査会における“音声テープ”の存在。元テレビ局報道部出身のジャーナリスト・鈴木昭典氏が国立公文書館で発見したものだ。  そこには、はっきりと、こんな証言が残されていた。“憲法9条の提案者は、ときの内閣総理大臣・幣原喜重郎によるものだ”と──。  まずは軽く時代背景を説明しておこう。1950年代は、岸らを始め、A級戦犯として公職追放されていた政治家が続々と政界復帰を果たしていたころ。憲法調査会は英米法学者の高柳賢三氏を会長に発足し、岸内閣から池田勇人内閣まで約7年間続いたが、このなかで最大の議題となったのが憲法制定の経緯だった。 『報ステ』では、若かりし中曽根康弘ら改憲派が「異常な状態でつくられた占領下の憲法」「外国の権力者がつくった憲法でありますから」「もう今日それに引きずられる必要はない」などと弁舌をふるう様が放送された。その狙いは冷戦下における9条の変更、軍隊保持を明記し、海外派兵を可能にすることだった。いうまでもなく、これは岸信介の孫・安倍晋三や昨今の改憲論者が論拠とする「押し付け憲法論」や「安全保障の急速な変化に対応」とまったく同質である。  だが、鈴木氏が発見した音声テープには、こんな証言が記録されていた。憲法制定当時に中部日本新聞の政治部長だった小山武夫氏による、憲法調査会公聴会での発言だ。 「第9条が誰によって発案されたかという問題が、当時から政界の問題になっておりました。そこで幣原さんにオフレコでお話を伺ったわけであります。その『第9条の発案者』というふうな限定した質問に対しまして、幣原さんは、『それは私であります。私がマッカーサー元帥に申し上げて、そして、こういうふうな第9条という条文になったのだ』ということをはっきり申しておりました」  つまり、9条はGHQ側による一方的な「押し付け」ではなく、幣原首相がマッカーサーに直接に提言したものだったのだ。このことは、51年5月の米上院軍事外交合同委員会の公聴会でマッカーサー自身も証言していることだ。そして、マッカーサーは岸内閣の憲法調査会に対しても「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原総理が行ったのです」と書簡で回答していた。  それでは、幣原はいったいいつ、どのようにして「戦争放棄」を新憲法に組み込むよう、マッカーサーに提言したのか。64年刊行のマッカーサーの回顧録によれば、〈旧憲法改正の諸原則を、実際に書き下ろすことが考慮されるだいぶ前のこと〉、ちょうど幣原内閣の国務大臣・松本烝治らが新憲法草案作成にとりかかろうとしていた46年1月24日、幣原は私的な挨拶を名目に、マッカーサーの事務所に訪れていたという。 〈首相はそこで、新憲法を書上げる際にいわゆる「戦争放棄」条項を含め、その条項では同時に日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい、と提案した。そうすれば、旧軍部がいつの日かふたたび権力をにぎるような手段を未然に打消すことになり、また日本にはふたたび戦争を起す意思は絶対にないことを世界に納得させるという、二重の目的が達せられる、というのが幣原氏の説明だった。〉(『マッカーサー大戦回顧録』津島一夫・訳/中公文庫より)  このマッカーサーの回顧録は長らく議論の的となってきた。実際、表向きにはアメリカ側が松本草案を明治憲法と大差ないとして突き返し、戦争放棄を含むGHQ草案を作成、そして、これを日本側が調整したものが国会に提出されたというのが通説ではある。  しかし、9条の基盤についての「幣原説」を裏付けるのは、マッカーサー回顧録だけではない。実は、他ならぬ幣原自身が著書で「押し付け論」を明確に否定していた。  回顧録『外交五十年』(読売新聞社のち中央公論新社、初版1951年)のなかで、幣原は、総理就任直後にこんな風景を思い出したと記している。それは、敗戦の日に、幣原の乗る電車のなかで、ひとりの男が「なぜこんな大きな戦争をしなければならなかったのか、ちっとも判らない」などと怒鳴り散らしていたことだ。述懐はこう続く。 〈これはなんとかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならん(略)。よくアメリカの人が日本にやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、総司令部の方から迫られてたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関する限りそうじゃない、決して誰からも強いられたんじゃないのである。〉(『外交五十年』より)  また、幣原の秘書も務めた元側近議員・平野三郎による証言も残っている。平野は、前述の岸内閣憲法調査会に対して「平野文書」と呼ばれる報告書を提出したが、それは1951年2月、幣原逝去の直前に、平野が幣原から直接聞き取った言葉を問答形式で記載したものだ。これによれば、やはり幣原は平野に対し、象徴としての天皇制存続と9条の同時実現というプランをマッカーサーに進言した、と語っている。これを読むと、日本側、アメリカ側、ソ連をはじめとする天皇制廃止を求めた諸外国、そしてマッカーサーその人のさまざまな思惑を見越しての提言だったことが窺い知れる。  そして、今回『報道ステーション』が報じた、幣原が新聞記者にオフレコで、自身が“9条の発案者”であることを認めていたという証言。これもやはり、「幣原説」を補強するひとつの傍証である。こうした証言が複数存在する以上、少なくとも、日本国憲法はじめとした戦後の民主主義、基本的人権、平和主義のすべてをひっくるめて、GHQによる「押し付け」という乱暴な理屈に回収してしまう改憲タカ派の主張は、どう考えても暴論と言わざるをえないのである。  前述のマッカーサー回顧録にはこうある。幣原から「戦争放棄」を新憲法に盛り込むことを提案された総司令はひどく驚いた。なぜならば、〈戦争を国際感の紛争解決には時代遅れの手段として廃止することは、私が長年熱情を傾けてきた夢〉だったからだという。〈現在生きている人で、私ほど戦争と、それが引き起こす破壊を経験した者はおそらく他にあるまい〉とマッカーサー。彼が戦争を嫌悪する気持ちを吐露すると、幣原は──。 〈私がそういう趣旨のことを語ると、こんどは幣原氏がびっくりした。氏はよほどおどろいたらしく、私の事務所を出る時には感きわまるといった風情で、顔を涙でくしゃくしゃにしながら、私の方を向いて「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」といった。〉(前掲・『マッカーサー大戦回顧録』より)  果たして、このふたりだけの“会合”から70年。それは、この国が、直接的に戦争に参加し、それによって人を殺すことも、殺されることもなかった70年である。それだけは、確実に言える。  だが、これからは分からない。安倍首相は9条の解釈改憲ではあきたらず、いよいよ明確に“軍隊による殺戮”を合憲化しようとしている。戦争当事者である幣原とマッカーサーは、この日本の現状をどう思うだろうか。残念ながらもう、彼らに訊ねる術はない。 (宮島みつや)
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伊藤博文











1909年10月26日、伊藤博文はロシアの大蔵大臣・ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で射殺されました。

犯人とされたのは、韓国の民族運動家・安重根です。狙撃後安重根はロシア語で「コレヤ! ウラー!(Корея! Ура!)」(韓国万歳)と大声で叫び、逃げもせずにその場でロシア官憲に逮捕されました。実行犯の安重根には裁判で死刑が言い渡され、3月26日午前10時、伊藤の月命日と絶命した時刻に合わせて、刑が執行され、その生涯に幕を閉じたのです。

ところが、伊藤博文の暗殺の真犯人は安重根ではないという説が存在しているのをご存知でしょうか。なぜ安重根が真犯人ではないとする説が浮上したのでしょうか。だとすれば真犯人は誰なのでしょうか。

暗殺事件に関する疑惑

1.弾と銃創の違い

伊藤博文の遺体から発見された銃弾は、フランス騎馬隊のカービン銃の弾でした。しかし、安重根が犯行の際に所持していたのはクンフト社製・7連式のブローニング拳銃です。ブローニング拳銃でカービング銃の弾を打つことはできません。

伊藤に同行した貴族院・室田義文も5発被弾し、犯人は安重根ではないと書き記しています。室田は「フランス騎兵銃で撃った者がある」と述べていたそうです。

2.銃弾の角度

伊藤は狙撃のすぐ後「3発当たった。相手は誰だ」と叫んだとされています。3発のうち2発は体内に銃弾が留まっており、1発は右肩を砕き右乳下に止まっており、もう1発は右肩関節を貫通して臍下に止まっていたそうです。これからわかるように伊藤に当たった銃弾はすべて右上方から左下方に向けて当たっています。しかし、安重根は兵列の影に隠れるように「しゃがんで」撃ったと自白しています。

また、室田も「右肩から斜め下に撃つにはいかなる方法によるも二階を除いて不可能である。そこは格子になっていて斜め下に狙うには絶好であった」と語っています。


ロシア側の被害者はゼロ

伊藤暗殺の際、伊藤以外に傍にいた室田や秘書・森槐南も被弾しています。しかし、伊藤を狙撃現場である駅のプラットフォームに連れ出したウラジーミル・ココツェフをはじめ、そこにいた軍や警察などロシア側にはかすり傷一つなかったそうです。当時駅には多数のロシア軍や警察がいたはずで、伊藤のすぐ近くまで拳銃を持った安重根が近づくことが可能な状況は通常であれば生まれ得なかったはずなのです。

2.「韓民会」の存在

外務省外交資料館に収められている「伊藤公爵満州視察一件」に次のような記載があります。

真の凶行担当者は、安重根の成功とともに逃亡したるものならんか。今、ウラジオ方面の消息に通じたる者の言うところに照らし凶行首謀者および凶行の任に当たりたる疑いあるものを挙げれば左の数人なるべきか

そして、25人の名前が記されてありましたが、安重根を含めたこの25人は「韓民会」というロシア特務機関の影響下にある組織だったのです。

3.クンフト社製・ブローニング拳銃はロシア陸軍のもの

ノンフィクションライター・大野芳氏『伊藤博文暗殺事件』の中で、安重根が使用した拳銃は、第一次世界大戦の契機となったオーストリア皇太子夫妻暗殺事件(サラエボ事件)に使われた拳銃の一つ前のタイプだという点を指摘しています。これを踏まえ、前九州大学大学院の客員教授・若狭和朋氏は論文「伊藤博文暗殺・安重根は犯人ではない」で次のように述べています。

クンフト社ならば販売先はロシア陸軍である。皇太子夫妻を暗殺した犯人は『セルビアの民族主義の青年』だと、高校教科書は書く。
だが、これは間違いである。犯人たちはセルビア陸軍の青年将校たちであり、レーニンの同志であった。世界大戦を共産主義革命の起点と考えたレーニンはセルビアの国王や閣僚たちをクーデターで殺し、セルビアを制圧していたのである。クーデターを起こした将校たちはレーニンから支給された武器で武装していたのである。

若狭氏が指摘する通りだとすれば、安重根もロシア陸軍からこの拳銃を入手していたと考えられます。

4.会談は極秘だった

伊藤とココフツェフとの会談は前満州鉄道総裁・後藤新平が極秘に設定した会談であり、日本側でも一部の人間しか知りませんでした。つまり、日本政府の中枢にいる人間、もしくはロシア政府側の人間から情報が漏洩しない限り、今回の暗殺計画を練る事はできなかったのです。




ロシアが伊藤博文を暗殺する動機とは

では、ロシアには伊藤を暗殺するどんな動機があったのでしょうか。その動機としていわれているのは、日露戦争での敗北は伊藤の裏切りによるものだと考えていたということです。

日露戦争前の伊藤は、満韓交換による日露協商を締結する事で日露友好を画策する親露派としての立場をとっていました。満韓交換というのは、、満州でのロシア帝国の権利を認める代わりに、朝鮮半島での日本の権利を認めてもらおうという考えです。しかし、ロシアは軍事的に優位な立場にあり、もし日露協商が成立しても長続きはせず日露開戦は免れないという考えから、国内は山県有朋や桂太郎らの主導する親英派が主流となっていました。そして1902年、日英同盟が結ばれます。こうした状況の中で日本はロシアに満韓交換論を提示しますが、ロシアはこれを受け入れず、逆に朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案をしてきたのです。中立とはいえ、朝鮮半島にロシアの勢力がおよぶことを示していたので、日本はこれを拒否。こうして1904年、日露戦争開戦に至ることになります。

ロシア皇帝は日露開戦は早くても2年後と見ており、1902年に日英同盟が結ばれ、日本が急速に対露路線をとったのは寝耳に水だったのでしょう。ロシアは態勢が整わないまま、日露戦争を戦わなければならなくなり、実質的敗北を喫してしまったのです。

ロシアはこの『策略』の中心部にいたのが伊藤博文だったと考えていました。親露の立場をとってロシアを安心させておきながら、実は裏で日英同盟締結を画策し、ロシアを謀略する役割を演じていた、ということでしょうか。

隠された真相

前述した2つの疑惑を見ても、安重根が犯人でなかったと考えるのが妥当に思えます。しかし、日本の裁判所は安重根は死刑に処したのです。

また、その時の検事の調書には室田が述べていた「フランス騎馬銃」の記録がなく、さらに言えば安重根を裁いた公判記録のどこにも「騎馬銃」の文字は出てきません。加えて、遺体の処置に当たった医師の談話にも「騎馬銃」のことは出てこないのです。

こうした状況を鑑みるに、日本が安重根を真犯人に仕立てあげた可能性が高いといえるでしょう。

日本が伊藤暗殺の真相を隠した理由には日本の利権が関わっていたと考えるのが妥当でしょう。「伊藤は安重根の凶弾に倒れた」とする方が、真相を明らかにするよりも利益があった、もしくは真相を明らかにすることは日本に不利益をもたらすと考えられたのかもしれません。いずれにしても新たな資料が発見されない限り、その真相は闇の中に葬られたままなのです。
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熊本地震検証














 16日未明のM7・3の地震が14日のM6・5の地震の余震が起きている地域で起きていることから、政府の地震調査委員長の平田直・東京大地震研究所教授は「14日の地震が今回の前震だったとする気象庁の見解の通りだと思う」と説明。

 山岡耕春・名古屋大学地震火山研究センター教授は「14日の地震に誘発され、16日の未明の地震など新たな地震が次々に起きているとみるべきだ」と指摘する。「余震も14日までの地震に比べて北東側に広がっているようにみえる」と話す。

 大分県にも広がっていることについて平田教授は「16日未明のM7・3の地震に刺激されて、元々地震が起きやすい状態のところで誘発された可能性がある」と分析する。

 こうした広がりについて、国土地理院の宇根寛・地理地殻活動研究センター長は、日本列島の地殻変動を分析。「14日のM6・5の地震は日奈久(ひなぐ)断層が動いたという要素が大きいが、今回は既存の布田川(ふたがわ)断層が右横ずれを起こしたことでデータは説明できる」と話す。

 気象庁は、16日午前1時27分、有明・八代海沿岸に津波注意報を出したが、同2時14分に解除した。気象庁によると、津波は観測されなかった。注意報を出した理由について「M7・3ぐらいの規模の地震が発生すると、海の方まで断層が伸びている可能性があるので、注意を呼びかけた」と説明している。

■前震・本震・余震の違い
 通常、最初に起きた大きな地震を「本震」という。本震が起きる前に、震源となる場所の付近で前触れとも言える地震が起きることがあり、その地震が「前震(ぜんしん)」と呼ばれている。

 前震は本震の直前から数日前に起きることが多い。ある地震が起きたとき、その地震が前震であるかどうかを判断することは現状では難しい。後に、本震の前に近くで発生し、本震よりも規模(マグニチュード)が小さいなどの条件を満たすものが前震と位置づけられている。

 本震の後に、その周辺でより小さい地震「余震」が多数発生する。これまで発生した地震の記録から、余震の規模は本震に比べてM1程度よりも小さいことが多く、ある程度、規則的に減っていくことが確認されている。一方、前震の規則性ははっきりしていない。2011年3月の東日本大震災(M9・0)では、2日前にM7・3の地震があり、後に前震と判断された。




日本では、東日本大震災や南海トラフで繰り返されてきた海溝型の巨大地震だけでなく、1995年の阪神大震災(M7・3)、2004年の新潟県中越地震(M6・8)、14年の長野県北部の地震(M6・7)など、内陸での活断層型地震が繰り返されてきた。
 陸域が震源となる活断層型の地震は、人が住む地域や交通網などの直下で起きることがある。このため、強い揺れや地表にできる段差で、地震の規模が海溝型地震ほど大きくなくても、深刻な被害が起きる恐れがある。

 政府の地震調査委員会は、全国の活断層のうち97を主要活断層として、地震が起きた場合の規模、30年以内に地震が起きる確率などを示し、警戒を促してきた。熊本の地震を起こした日奈久(ひなぐ)断層帯も布田川(ふたがわ)断層帯もその一つだ。しかし、00年の鳥取県西部地震(M7・3)や08年の岩手・宮城内陸地震(M7・2)のように、地震前には確認されていなかった「未知の活断層」で起きる例も相次いだ。

 活断層による地震は、1千年から数万年の間隔で発生するものが多い。防災科学技術研究所の藤原広行部門長(地震学)は「活断層の中には、地表には痕跡が現れにくいものや、長い年月で痕跡が消えてしまったものもあり、活断層が見つかっていない地域でも注意が必要だ」と話す。




今までの経験則から外れている」
 16日未明に起きたマグニチュード(M)7・3の「本震」の後、熊本県阿蘇地方や大分県でもM5を超える大きな地震が発生したことについて、同日午後に会見した気象庁の橋本徹夫・地震予知情報課長はこう表現した。国内では、14日に発生したようなM6・5規模の活断層型地震の後、それを上回る本震が発生した記録が存在しないという。
 気象庁によると、本震は熊本県の布田川(ふたがわ)断層帯で発生したとみられる。この断層帯から北東にある同県阿蘇地方では、午前3時台にM5・8の地震が2回発生。さらに北東の大分県中部でも午前7時すぎにM5・3の地震が起きた。
 会見では、これら2カ所の地震活動の高まりは、本震とは独立した別の地震活動であるとの考えを示した。その上で、橋本課長は「地震活動が今後、どのようになっていくかは分からない」と述べた。
 M7・3の本震以降、地震の回数も急増した。気象庁によると、16日午前1時までの約30時間に観測した震度1以上の揺れは153回。その後、16日午後3時までの14時間で134回に及んだ。
 地震の回数が増えれば、建物が倒壊する恐れも高まる。柱や壁に強い力が加わり、変形して戻ることを繰り返すと、ひび割れや隙間ができる。その結果、建物の外からの力に耐える力が落ちてくるからだ。
 現地で調査を続ける福岡大の古賀一八教授(建築防災学)によると、14日の地震で傷んだ建物に16日の本震でさらに力が加わったことで傾いたり倒れたりしていたという。「前日まで柱が1本崩れていたという鉄筋コンクリートの店舗では3本の柱が大破して、倒壊寸前になっていた」
 一方、16日の本震では阿蘇山周辺で起きた土砂崩れが住宅を巻き込んだ被害をもたらした。付近は溶岩でできた岩盤の上に、「スコリア」と呼ばれる数ミリから数センチの黒い軽石が積もった一帯。もともと土砂崩れが起きやすい。
 伊藤英之・岩手県立大教授(自然災害科学)は現地の状況について「スコリアの層が崩れる『表層崩壊』の可能性がある」と指摘。スコリアや火山灰が積もった場所が雨で崩れると、土砂と水が混ざり、土石流を起こす恐れもあるという。
■北東・南の活断層に「影響も」
 最初の地震は日奈久(ひなぐ)断層帯の北部で起きたが、16日の本震はその北東側の布田川断層帯で起きたとみられる。今後懸念されるのは、さらに別の活断層による地震が誘発される可能性だ。
 相次ぐ地震の震源は、「別府―島原地溝帯」と呼ばれ、多数の活断層がある溝状の地形に沿って分布する。さらに北東には、四国を横断し紀伊半島に延びる長大な活断層、中央構造線断層帯が連なる。
 林愛明(りんあいめい)・京都大教授(地震地質学)は「今回ずれた断層の延長線上にひずみがたまり、大分県側でM7級の地震が起きることも否定できない。四国側の中央構造線が動く可能性もある」と話す。
 地震が起こると、震源になった断層にたまっていたひずみは解消されるが、逆にその周囲や延長線上にある断層のひずみが増えることがある。その影響は、離れた地域にも及ぶ。
 東日本大震災の直後には、長野県や静岡県でM6級の地震が起きた。活断層による内陸の地震でも、1992年の米ランダース地震(M7・3)の3時間後に、40キロ離れた地点でM6・4の地震が発生した例が知られている。
 今回、地震が起きている領域と重なる大分県の別府―万年山(はねやま)断層帯でも、この断層が動いた慶長豊後地震(1596年)で、前後数日の間に愛媛と京都で大きな地震が起きた記録がある。中央構造線断層帯などの活断層の調査で、これらに対応するとみられる地層のずれも見つかっている。
 ただ、四国の中央構造線断層帯の平均活動間隔は千年以上とされる。岡田篤正・京都大名誉教授(変動地形学)は「前回の愛媛の地震から約400年しかたっておらず、ひずみがたまっていないとみられる。四国の中央構造線断層帯の活動が誘発される可能性は低い」とみている。
 南西側にも、日奈久断層帯の動いていない部分がある。加藤照之・東京大地震研究所教授は、ほかの断層への影響について「何ともいえない」としつつも「気持ちは悪い。影響もあるかもしれない」。震源が広がる北東方向だけでなく「南にも破壊が延びていく可能性はある」と警告する。
■南海トラフ地震「誘発低い」
 今回の地震が、九州から東海地方の沖合で想定されている南海トラフの巨大地震の発生に影響することはあるのか。
 今回起きたような内陸の「活断層型地震」は、陸側のプレート内部で起こる。震源が浅いため、小さい規模でも局所的に大きな被害を出すことがある。
 これに対し、南海トラフ地震は「海溝型」で、海側のプレートが陸側のプレートの下に沈みこむ場所で起こる。規模が大きく、広い範囲で大きな揺れや津波被害につながる。
 西村卓也・京都大防災研究所准教授(地震学)は「今回の地震が南海トラフ地震を誘発する可能性はあまり考えられない。距離が離れているうえ、今回の地震はM7級と相対的に規模が小さく、影響は非常に小さいとみられる」と話す。
 ただし、南海トラフ地震は約100年周期で繰り返されている。南海トラフ地震の前後数十年は、内陸の地震活動が活発化することが知られている。数十年単位でみれば発生は近づいており、備えを進める必要性に変わりはない。
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住みたい家













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ナパワイン



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作者のDiego Fazioは1989年生まれ

最後までご覧頂いた方はおわかりの通り、すべて鉛筆画だ。


。タトゥー職人だったが、葛飾北斎ら江戸時代の日本の浮世絵画家に影響を受け、独学で、タトゥーの技術を応用して、繊細さと美しさを表現する技法を編み出したという。最初は女性の微妙な心理を、顔のひだや目を通じて描き出し、静かな感情を表現していたが、のちに社会への怒りや絶望を表す表情も描くようになったという。
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LOVE
どちらにしろ、生きてくってことは愛すること。 そして許すことだ。 でも、それが上手く言えない。 それを上手く伝えられない。 だから愛なんだ・・・

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