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北方問題?

 日本は、1951年に結ばれたサンフランシスコ条約で、千島列島を放棄ほうきしました。「千島列島は日本のものではありません」と世界に向かって約束やくそくしました。  クナシリ島・エトロフ島は千島列島の南のほうにあるので、「千島列島南部ちしまれっとうなんぶ」「南千島みなみちしま」と呼ばれていました。サンフランシスコ条約を結んだとき、日本政府は「クナシリ島・エトロフ島はサンフランシスコ条約で放棄ほうきした千島列島に含まれるので、日本の領土では有りません」と言っていました。  ところが、それから5年後の1956年になると、日本政府は「サンフランシスコ条約で放棄ほうきした千島列島にクナシリ島・エトロフ島に含まれません」と言いました。そうするとおかしなことになります。「サンフランシスコ条約で千島列島は放棄ほうきしたけれど、南千島は千島列島ではない。」  1956年になってから、言うことを変えたために、日本語としておかしなことになってしまいました。そこで、日本政府の主張が正しいと感じるように、「北方領土」と言うようになりました。国会で「北方領土」のことばを最初に使った人は、外務省がいむしょうの下田武三しもだたけぞうさんで、1956年3月10日のことです。クナシリ、エトロフ、シコタン、ハボマイのことを北方領土と言うようになったのは、1956年からですが、1960年までは「北方領土」よりも「南千島」といわれることのほうが多かったようです。  1964年になると、これまでの「南千島」ではなくて、「北方領土」と言うように、政府は国民に指図さしずしました。これによって、「北方領土」と言うと、クナシリ島・エトロフ島・シコタン島・ハボマイ群島のことになりました。  もっとも、1970年代は「北方領土」のほかに「南千島」の言い方も行われていたので、「南千島は、千島ではない」と、わけの分からない言い方がされることもありました。最近は、「南千島」はあまり使われず、「北方領土」が使われています。


どうして、北方領土問題が起こったの?  第2次世界大戦では、日本はドイツなどと一緒になって、アメリカ・イギリス・ソ連・中国などの国と戦争しました。日本やドイツなどを枢軸国すうじくこくと言い、アメリカ・イギリス・ソ連・中国などの国を連合国れんごうこくと言います。  1945年7月、連合国はポツダム宣言を発表して、日本軍の無条件降伏(負けを認めて、降参すること)を求めました。ポツダム宣言第7条で、日本は連合国にしばらくの間、占領されることが決められていました。  1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾の用意があることを連合国に伝えると、8月28日には、アメリカのマッカーサーの部下が厚木飛行場にやってきて、日本の本土の占領がはじまりました。同じ日に、ソ連がエトロフ島にやってきて、北方領土の占領がはじまりました。  1945年9月2日に天皇は、ポツダム宣言を正式に受諾して降伏文書に調印することを命じました。この日、降伏文書の調印がなされ、日本は正式に降伏しました。これより前、連合国の中心メンバーだった、アメリカのトルーマンと、ソ連のスターリンの間で、千島やサハリンはソ連が占領し、北海道など日本の本土はアメリカが占領することが決められました。この取り決めは、9月2日に、一般命令第1号として日本に命令されました。このようにして、北方領土はソ連に占領されることになりました。  1951年、日本は、アメリカやイギリスなど多くの国と平和条約を結び、正式に戦争が終わりました。また、日本の占領状態も終わりました。この条約で、日本は千島列島を放棄しました。このとき、日本政府は、放棄した千島列島にクナシリ島とエトロフ島は含まれるので、これらの島々は日本の領土ではないと説明しています。この条約には、ソ連や中国は入っていませんでした。  1951年の条約に、ソ連は入っていなかったので、ソ連との間で、正式に戦争を終わらせる必要がありました。そして、1956年、日本とソ連は平和条約を結ぼうとしました。8月14日、日本代表の重光葵とソ連の間で、ハボマイ・シコタンを日本領、クナシリ・エトロフをソ連領とすることで、条約交渉はほとんどまとまりかけました。しかし、8月19日、アメリカのダレスは、2島返還で妥結するならば沖縄を返さないぞ、と、重光葵を恫喝どうかつし、ソ連と領土交渉はできなくなりました。この話は、条約交渉にあたった松本俊一が書いた「モスクワにかける虹」「日ソ国交回復秘録」に詳しく書かれています。また、アメリカの公開公文書にも記載されています。  領土交渉がまとまらなかったのは、アメリカの恫喝のためだけではなく、日本にも、反対勢力があったことが大きな原因の一つです。  このようないきさつがあって、平和条約を結ぶことができなかったので、代わりに日ソ共同宣言を結びました。これは、法律上、正式な条約です。日ソ共同宣言では、今後、平和条約を結んだ後に、ハボマイ・シコタンを日本に引き渡すことが決められました。この時、領土問題は解決しなかったけれど、ソ連と日本の間で戦争が正式に終わったことが確認されました。そして、日本は、連合国の一員に入れてもらえることになりました。連合国は、戦前に日本が戦った相手のことなので、日本国内で使うときは、『国連』と名前を変えることにしています。日本では『連合国』『国連』と違う呼び方をしますが、英語ではどちらも『United Nation』です。  1961年10月池田首相、小坂外相は、千島とはウルップ島以北の18島を言うと、歴史的事実に反する説明をしました。このときから、政府の説明では、北方四島は千島の範囲に含まれなくなりました。


 なぜソ連は日本に宣戦布告したのですか?  ソ連の参戦は国際法違反ですか?  第2次大戦末期、ソ連は、日本に宣戦布告して、中国東北部・サハリン・千島を攻撃してきました。このとき、日ソ中立条約があって、日本とソ連はお互いの領土を攻撃しないことが決められていました。1945年8月8日、ソ連は、日本がポツダム宣言受諾を拒否したことを理由に、日本と戦争すると宣言し、翌日、戦争を開始しました。  このため、日本には、ソ連は卑怯だと考える人がいますが、世界的に見ると、日本の主張はほとんど無視されています。戦後、国際裁判である東京裁判でも、ソ連の参戦は正しいことだと認められています。  1943年のテヘラン会談、1945年のヤルタ会談で、アメリカ大統領はソ連に対して、日本との戦争に参加するように求め、ソ連は、ドイツとの戦争終結後3ヶ月以内に、日本との戦争に参加することを約束しました。ソ連はドイツとの戦いのために、アメリカから武器援助をしてもらっていたため、アメリカの要請を断れなかったのです。  1945年7月のポツダム会談のとき、ソ連は、アメリカに対して公文書で日本との戦争に参加するように求めて欲しいと要望しました。日ソ中立条約があったため、国際社会の正式な要望が必要であるとの考えでした。  これに対してアメリカは、ソ連が日本との中立条約を破棄して参戦することは国際法上合法であるとの結論を得て、7月31日、トルーマンはスターリンに対して、以下の内容の書簡を送りました。   1943年10月31日のモスコー宣言では、法と秩序が回復し一般的安全保障制度が創設せられるまで、平和と安全を維持するために、(米英ソ3国は)相互に協議をとげ、国際社会のために共同行動をとることになっている。また、いまだ批准されていないが国際連合憲章草案の第106条でも、憲章の効力を生ずるまでは四大国がモスコー宣言に基づいて行動することになっているし、また第103条では国際連合憲章による義務と他の国際協定の義務が矛盾する場合は、憲章に基づく義務が優先する。ソ連は平和と安全を維持する目的で、国際社会に代わって共同行動をとる為に、日本と戦争中の他の大国と協力せんとするものであるというべきである。(萩原徹/著「大戦の解剖」1950年、読売新聞社 P261-P267)  8月8日、ソ連が、日本に宣戦布告すると、アメリカ国務長官バーンズは「大統領はポツダム会談で、ソ連の参戦はモスコー宣言第5項と国連憲章第103条、第106条によって正当化されると述べた」とソ連の参戦は国際法上合法であると説明しました。



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どちらにしろ、生きてくってことは愛すること。 そして許すことだ。 でも、それが上手く言えない。 それを上手く伝えられない。 だから愛なんだ・・・

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